札束で歓喜する資本家と、わずかな賃金で命を懸ける労働者、
炭鉱の労働は過酷なもので、塩をかじりながら大量の汗を流し、
岩盤(最高温度だと50℃にも達する) を掘削する、
身体中が粉塵と汗で黒まみれになるという 。
新聞沙汰にならない落盤(山はね)は日常茶飯事で、
掘削現場では、一寸先は何が起こるか知れたものではない、
作業場で光るのはヘッドライトと大きくみひらいた瞳だけ。
勤務が終わると、
その日の疲れを癒しに大牟田・荒尾の繁華街は、くりだした労働者達で溢れかえっていた。
「お偉いさんたちゃ料亭バイ、俺たちゃ安酒場で乾杯タイ」 男たちの顔は笑っていた。
やがてエネルギー資源が石炭から石油へと変わり始めると、
企業は生産調整名目の合理化に着手しながら、炭坑労働者の人員整理(首切り)へとシフトし、
ついに資本家対労働者の対決 「三池闘争」 へと進んでいく、
労働組合の分断、警察機動隊、地元暴力団を使ったデモ鎮圧。
その時の様子をかすかに覚えている、
炭住街(炭坑労働者の社宅)では第一組合と第二組合の反目、
まさに貧しい者同士が敵対してしまうような状況に置かれ、
第一組合側のスピーカーからは荒木栄作曲の「がんばろう」の歌が一日中流れていた。
1963年ビシッと窓ガラスが揺れた、TVの臨時ニュースが「三川抗が爆発」と報道している、
窓の外をもう一度見た、
遠くに黒煙が立ち上っている。
母が夕方帰ってきた、「今日三川抗が爆発したゲナヨ」と、母に告げた。
忘れていた! 姉の婿が三川抗の炭坑マンだった・・・
母が言う「出産休暇は昨日までバイ」「あんたすぐ荒尾まで聞きに行ってくれんね」
「ねぇちゃんには内緒バイ」
4kmほどの道を自転車で走った、姉は出産入院中で荒尾の家は誰もいなかった、
仕方なく三川抗(海底炭鉱 )入り口へ行ってみた。
家族や友人の安否を気遣う人でごった返していた。
「あがったぞー」 大きい声と一緒に担架が救急車に運ばれていく、
隣にいたおばさんは周りの人を捕まえては、
独り言を大きな声で叫んでいた「うちの人は大丈夫ダケン」
この異様な雑踏から逃げるように家に帰った。
死傷者458名、一酸化炭素中毒839名、
私の高校の生徒の親や、高校夜間部生徒もこの事故で亡くなった。
世界の炭坑関係者が見学に来る、三井鉱山自慢の三川坑が(1963年)炭塵爆発を起こした。
「三池争議」のあと、
三井鉱山がコスト削減の人員整理(首切り)を最優先にした、
原因のひとつに、首切り合理化(効率化)が安全管理をおろそかにした為だと言われている。
炭坑災害では他にも
山口県宇部市の炭坑では(1942年)海水流入事故で183人が死亡するという事故も起きている。
ここでは犠牲者が今も引き上げられないまま坑道ごと放棄されたと記され、
犠牲者の約7割が(徴用)朝鮮半島出身者だったとも言われている。
この様に、
日本の近代化産業革命遺産が世界文化遺産として登録される時、
時代を支えながらも、安全無視の過酷な労働の中で命を奪われた人たちの事を、
忘れてはいけないと思う。
1997年三井鉱山(三川抗)閉山
にぎわっていた繁華街もさびれ、
若者は県外に出て行き、残っているのは老人と子供、
人口も最盛期20万から13万ほどに減り、今も減り続けている。
老人は、くわえ煙草でこう言う「昔はよかった」
どれくらい昔のことを「良かった」と言っているのか私にはわからない。
私の母校は昔、集治監所(三池刑務所)だった。
校庭には地下へ通じる防空壕みたいなものがあった、
入ってみたが途中からコンクリートの壁で塞がれていた、
その先には「囚人労働」が行われていた宮原坑が有る、
おそらく囚人を採炭労働に連れ出す地下道だったかもしれない。
私にとって炭坑と言う言葉を聞く時、
どうしても過酷な労働と結びついてしまうのは、
三川抗の炭塵爆発の時の異様な現場に居合わせた為だろうか。
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